ミナミマグロ産業は、国際的な影響力を伴ったオーストラリアのサクセス ストーリーです。ポート リンカーンの漁業によって開拓された ミナミマグロ産業は 、ゆっくりとちいさなステップで歩みを始め、過剰生産とそれに伴う ミ ナミマグロ種の危機を経て、技術革新、資源回復、強固な資源基盤の産業へと 進化 しました。今日、ミナミマグロ産業は持続可能で、南オーストラリア州の水産養殖 産業で最も重要で価値のある単一のセクターであり、またオーストラリア東海岸の マグロ漁及びカジキマグロ漁業にとっても、ミナミマグロは重要な魚となっていま す。

オーストラリアのミナミマグロ産業は、第二次世界大戦の終わった後に本格的に始 まりました。 1936 年に、英連邦科学産業研究機構 (CSIRO) のスタンレー・ファウラ ー (Stanley Fower) がオーストラリア空軍のグレート オーストラリア湾上空飛行に「 同乗」したことがきっかけでこの産業が生まれました。 当時スタンレー・ファウラーは、経済発展を促進するためにマグロの調査を行って いました。資料によるとこの頃まで漁業はほとんど開発されておらず、また評価も されていませんでした (Serventy、1956)。スタンレー・ファウラーは、この同乗飛行 の際に南オーストラリア州沖に回遊する多くのミナミマグロの群れを発見しました のです。


1979 年生物学者たちは、この漁業の乱獲に対して警告を発しました。 親魚のバイオマスが驚くべき速度で減少していることが判明しました (30%の減少)。 この結果はその後数年間稚魚の ミナミマグロの流入が減少になることは自明でした 。さらに、世界全体の ミナミマグロの 漁獲量が減少し始めているというデータもあ りました。オーストラリアの ミナミマグロ漁獲量は 1982 年にピークに達しました が、同時にその年の日本の漁獲量は 40,000 トンで、1962 年のピーク時の半分でした 。これはみなみまぐろの資源が全体的に減少していることを浮き彫りにしていまし た。
ミナミマグロ産業が種のバイオマスに与えた劇的な影響を認識し、業界は未来の漁 業を維持するためにルールを変更しました。1984 年、オーストラリア政府は漁師に 個別譲渡可能割当 (ITQs) を割り当てました。この割り当て制度は、業界でのさらな る乱獲を防ぎ、資源の回復に時間の余裕をもたすために導入されました。 その後日本政府とニュージーランド政府も漁獲量を制限することに同意しました。 最初のITQ sの導入後、合計の割り当て量はさらに削減されました。 皮肉なことに 1983年から1988年の間、漁師は割り当て量さえも捕獲できず、ミナミマグロが 乱獲 されていたことが証明されました。


技術の進歩により、マグロをマイナス60℃で冷凍できるようになりました。 この温度では、過冷却冷凍により肉の脂肪が安定し、劣化を防ぐため、マグロは 最高の状態で冷凍されます。ミナミマグロは最高の状態で日本に輸送できるように なり、刺し身のマーケットに参入となりました。 缶詰のミナミマグロは1キログラムあたり2ドルでしたが、高級刺し身としては 1 キログラムあたり45ドル以上になりました。
当初ミナミマグロの畜養を提案したのは日本の漁業関係者でした。畜養場(海上ケージ)でのミナミマグロの畜養の可能性を評価するため、オーストラリアマグロ船主協会(現在の名称はASBTIA)と日本かつおまぐろ漁業協同組合が海外漁業協力財団(OFCF)と共同で調査を開始しました。このプロジェクトは南オーストラリア州政府とオーストラリア政府の支援を受け、ミナミマグロ業界が水産研究開発公社(FRDC)と連携して実施しました。
